われ思うゆえにわれあり
つまり
自分の存在だけは確かに存在する
ってことですか?
我を思っている「我」が他者や機械の中ではない保証はないので、「自分」の存在も確かではありません。このような、どこかに本当の自分と世界が存在するはずだという考え方は、入れ子状の認識論に陥ってしまいます。そのため、「判断停止」なんていうことを提唱する哲学者も居ました。現在では、脳科学や認知心理学の立場から、人間の意識がどのように成立してきたのかを考えると、意識と世界は、密接な関係を持って、交互に関連しながら発達してきたと考えるのが妥当です。
デカルトですね。コギト?エルゴ?スム。正確には「考えている私は」といったところでしょうか。「考えていないときの私」については、その言葉は保証していない感じです。
effort_s1さんサルトルじゃなくて、そのはるか昔のデカルト、だと思います。われ思うゆえに我あり。難しいですが、自分の存在は、本当に確かにあるものなのかを考えるとき、私は考えている、そのことだけは疑いようのない事実なので、だから私自身は確かに存在している。ということだと、勝手に解釈しています。
自分を思惟するということは自分を認めているという根拠でしょう。それであってると思いますが。それってサルトルでしたっけ?
自分がこうして考えていることが、結局それは、自分が現に存在していることの証しである。という意味である。
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08月 29th, 2008 at 11:52
我を思っている「我」が他者や機械の中ではない保証はないので、「自分」の存在も確かではありません。このような、どこかに本当の自分と世界が存在するはずだという考え方は、入れ子状の認識論に陥ってしまいます。そのため、「判断停止」なんていうことを提唱する哲学者も居ました。現在では、脳科学や認知心理学の立場から、人間の意識がどのように成立してきたのかを考えると、意識と世界は、密接な関係を持って、交互に関連しながら発達してきたと考えるのが妥当です。
08月 29th, 2008 at 11:52
デカルトですね。コギト?エルゴ?スム。正確には「考えている私は」といったところでしょうか。「考えていないときの私」については、その言葉は保証していない感じです。
08月 29th, 2008 at 11:52
effort_s1さんサルトルじゃなくて、そのはるか昔のデカルト、だと思います。われ思うゆえに我あり。難しいですが、自分の存在は、本当に確かにあるものなのかを考えるとき、私は考えている、そのことだけは疑いようのない事実なので、だから私自身は確かに存在している。ということだと、勝手に解釈しています。
08月 29th, 2008 at 11:52
自分を思惟するということは自分を認めているという根拠でしょう。それであってると思いますが。それってサルトルでしたっけ?
08月 29th, 2008 at 11:52
自分がこうして考えていることが、結局それは、自分が現に存在していることの証しである。という意味である。